物書きのウォームアップということで.
江崎 文明を維持、発展させる原動力だと思います。一口に「科学技術」と言いますが、正確には科学と技術は違うものではないでしょうか。考え方として別々にとらえた方がいいように思います。
科学とはともかく新しい知識を生むことが重視される。何か新しいものを生むものです。それに対して、技術は科学が生んだものを育てるというプロセス。科学を応用したいわゆる工業的な技術なんですね。ですから技術は富を生まないといけない。富を生まない技術は価値がないわけです。一方、科学は直接的には富を生まなくてもいい。
科学と技術はそもそも根源が異なる点について,その歴史的背景を踏まえた発言ならいいのだが,単に自身の知識・経験からのナイーブな発言であるならば気になる.それから,技術はつねに科学の応用で成り立っているのだろうか? 科学を無視して技術側の都合で突っ走る事例も多いはず.また,この点を考えると「富を生むかどうか」という視点だけではなく,社会的に望ましい・望ましくない科学・技術の問題として捉えた形の発言にして欲しいとも思う.
科学技術を英語で言おうとするとどうなるか。サイエンステクノロジーではない。サイエンス・アンド・テクノロジーとかサイエンス・ベースド・テクノロジーといった訳し方になるのでしょう。もっとも、それも違うという人だっているかもしれない。日本の目指す方向として「科学技術立国」というような言い方をよくしますが、はっきりと英語に翻訳できないわけです。
サイエンスとは人間の理性、知性の産物です。世界と交流、コミュニケートするうえで、きちんと西洋に翻訳できるような言葉を使うべきだと思います。日本が何をしていきたいのかが分からないと世界で理解してもらえません。
以前大学院の授業で聞いた話では,欧米の科学論の研究者からは逆に「日本の『科学技術』に相当する概念をひとことで表現できないので,『科学技術』という言葉で説明できる日本語圏がうらやましい」という言葉さえ出てくる場合もあるそうだ.どの程度この問題意識が科学論の研究者の中で一般的なのかはわからないが,単に翻訳できれば済む問題ではない.「科学技術立国」という語に対する違和感は私も持っているが,差し当たり「科学技術立国」という目標がどの程度明確化可能で,どの程度意味のあるものかを議論することが重要ではないだろうか.
江崎 英語に「candor」という言葉があります。虚心坦懐といった意味です。先入観を持たないということ。日本に欠けている点ではないでしょうか。「この研究者はどの先生の弟子か」「どこから来た人か」とか、そういう話になりがちです。
米国が世界中の知性を引きつけてきたのは、「彼はどこの出身だ」というような先入観をもって見ないことも理由の1つだ思います。アジアの人たちが日本より米国に向かうのにはそうした背景もあるのではないでしょうか。
candorに加えて必要なのが「taste」です。おいしい料理を食べて味が分かるように、研究内容を見て「これは革新的だ」と分からないことには始まらない。この2つが評価の質を決める重要な要素です。
師弟関係で人事が決まるコミュニティもまだありそうだが,日本国内でも実力本位で人事を決める動きも出てきているわけで,一概に日本の欠点と断言し難い.もちろん,これは私の主観も存分に入っているので,研究者の人事について調査を行った上で考察を進めた方がよい問題である.
また,「虚心坦懐」という言葉を出すには,随分意味が狭過ぎるのではないだろうか.編集された可能性もあるのだが,研究を進める上でいかに先入観や通説を覆すことが難しいかを,実例を交えて説いた方がよかったのではないだろうか.また,tasteについても,研究の「革新性」の評価は人により,そして立場により異なることをもっと前面に出して欲しい.議論の末に出された結果が「革新性」はひとつの軸で決まるようなものになってしまうことを危惧している.「革新性」は,他者との違いの中で深められるものであり,また個々人の中でも複数の軸があって当然のものであると考えている.
江崎 そうです。どう評価するかを議論していけば、だんだんとtasteが磨かれ、考え始めるようになると思いますよ。世界一のコンピューターを作ることも大事ですが、そういうことを考えていかねばなりません。
先ほど事業仕分けの話をしましたが、日本のお金の使い方に対する実績をどう評価するか。
科学技術白書によると日本は18兆円くらいの科学技術研究費を投じています。米国は44兆円、ドイツが8兆円、フランスが5兆円、英国が4兆円だから、日本は米国に次いで使っているわけですね。問題はそれだけの成果が出ているか。
必ずしも適当かどうか分かりませんが、ノーベル賞を例にとってみましょう。これまでの受賞者が世界で約800人。うち米国が約300人、英国が約100人、ドイツが約80人、フランスが約50人。
一方、我が国は15人。米国に次いで予算をかけているにも関わらずです。全受賞者800人に対してわずか2%に過ぎません。
ちょっとおかしいと考えた方がいいのではないでしょうか。新しいものを生む研究では成果が上がっていないという見方もできます。
科学技術研究費の内訳(インプット)と,ノーベル賞受賞者数(アウトプット)の関係を論じなくていいのだろうか(参考:最上の日々 投入は技術なのに、成果は科学で評価するのアンフェアだ).「科学技術」という用語の議論を最初にしているのに,こうした議論の中ではまた科学と技術を一緒くたにしているところが気になる.また,国別のノーベル賞受賞者数は日本の15人の中に文学賞受賞者の川端康成や大江健三郎が含まれていることを考えると,他国についても全部門を一緒くたにした数値であると予想される.インプットも一緒くただが,アウトプットも一緒くたである.そもそもノーベル賞受賞者数を指標とすることには違和感があるが,指標とするならせめて理学系の受賞者に絞った値で議論をして欲しい.
こんな例を挙げて僕が言いたいのは、何事もどういうプロセスを経てそういう予算が出たのかを調べる必要があるということです。
成功、失敗を問わず、どんなプロジェクトも誰かが何らかの評価をして決まったに違いないわけですからね。きちんと検証することで評価する目が磨かれていくのです。
一方、科学の応用では日本は今まで、かなりいい成績をあげてきたと言えるでしょう。自動車もたくさん輸出してきたし、家電製品もそうでした。まあ、最近はいろいろと課題があるようですが。
成功,失敗の要因の検証はもちろん重要だが,それなら前のページの最後にあった 第5世代コンピューター
や 戦艦大和
に関しても,単に失敗しました,おしまい,だけにとどまらない考察が必要だろう.それから,本当に科学の応用が技術に結びついてきたのか,また技術の側から科学へのフィードバックはあったのか,という点についても疑問を投げかけてもよいのではないか.ここも いろいろと課題がある
だけでなく,具体例を交えつつ指摘して欲しかった.
江崎 まず自分を評価することが大事だと思いますね。自分がどういう才能を持って生まれたか。何に興味を持っているか。「What should I do with my life」。人生とは自分が主役を演ずるドラマ。そのシナリオが問われます。
封建主義の社会ではそのシナリオが決められたもとで人は生まれてきました。一方、民主主義では自分の将来を運命が決めるのではなく自分で決める。そのシナリオを書くのは自分。そのためには自分を評価しなくてはいけない。
いったいどういうことをすれば人生の喜びを味わえるか。自分の能力を最大限に発揮できるシナリオを書くのが教育の目的になるのではないでしょうか。
自分の評価だけに閉じてしまうのではまさに「自分探し」である.これではこの先到底研究者として生き残ることは困難だ.自分の長所・短所の分析はそれなりに必要だが,自分のもつ限られたリソースの中で,研究者コミュニティの中で,そして社会の中でどうすれば生き残れるかを考えることが重要ではないだろうか.
ノーベル賞受賞者はある分野の研究のエキスパートであり,その知識・経験については相当の評価ができるであろうが,だからといって「科学のことなら何でも知っている」と捉えるのは別である.もしかしたら単にインタビューの機会を得られたからこのようにまとめただけなのかも知れないし,メディアによっては取材のしかた,アウトプットの量や内容にも制約が出てくるだろう.だが,今回のインタビューでとりあげたトピック,ざっと挙げると以下だろうか:
科学・技術の変遷の歴史的背景を踏まえた国による差異
科学・技術関連予算,教育関連予算の使用用途の国による差異
科学・技術の評価基準に関する研究者コミュニティ内とコミュニティ外との差異
研究者のチームワークのあり方
研究者のキャリアの歩み方
これら1つ1つをとりあげるだけでも膨大な議論がそこにはある.インタビュイーのもつ知識や経験が生き,かつメディアの受け手にとって興味深いトピックになるように,内容を絞ってインタビューし,まとめた方がよかったのではないか.たとえば「科学のリーダー」というタイトルの意図を生かすなら,研究者のチームワークに焦点を当てて,研究で成果を出すチームのあり方と企業の現状の差異について議論するというアプローチが考えられる.また,異なる切り口に持って行くなら,これまでのキャリアについてひたすら聞き出して,若手研究者が置かれている現状との差異を論じて,企業における人材活用方法の模索につなげることもできるかも知れない.このように,読者,インタビュイー,メディアの要求のそれぞれの接点を考え,内容を絞ったまとめであればより有益だろうと考えている.
まず,(1)から読まれていない方は,そちらを読まれたい.
今回は『ロボットとは何か』の第9章・エピローグに関して気になった点を述べる.
言いたいことは、ロボットそのものは単純であり、ロボットを特別なものとして恐れる必要はまったくないということだ。パソコン同様に、簡単にスイッチを切ることができる。しかし、パソコン同様に、スイッチを切ってしまうと、社会的な関係まで失う可能性があるということである。
ロボットは,スイッチを切っても身体が目の前に存在する.「存在が気になるならしまっちゃえばいい」という話にもなりそうだが,しまってもなお身体の存在が気になる.スイッチを切ったロボットの身体は,第7章で触れられたスイッチを切ったジェミノイドほどではないにせよ,不気味に感じるケースもあるだろう.この不気味さをいくらか感じなくて済むのが身体化エージェントの強みである.仕組み的には単なる端末同士,ないしサーバを介した情報のやりとりに過ぎないが,身体化エージェントは勝手に姿を消し,かつ姿を消した先についても「自分の目の前にはいないが,どこかにいる」と感じられることもある.このことは小野先生のITACOの一連の研究や,TRAVATARの利用から実感できる.この点についてはまだ様々な基礎的な検討の余地を残しているので,いずれ研究したいと考えている.
見かけを擬人化しやすいロボットを通して、(鈴木注:コールセンターの)オペレータとユーザーが対話するのである。単純なやりとりは自動化することができる。そうすることにより、ユーザーは、ロボットに対して感情移入し、オペレータに感情をぶつけるのではなく、ロボットに感情をぶつけるようになるだろう。
コールセンターのクレーム処理に対応するために,ロボットを介したユーザとオペレータのやりとりにした方がよいのでは,という提案である.(1)のスタンス2に立ち返って考えると,コールセンターに連絡するユーザは往々にして「何かがうまくいかない」から連絡するのであり,「なぜうまくいかないのか」を知りたい以上分析的思考が働きやすい場面である.そこに中途半端にロボットが関与すると,「なぜいちいちロボットを介してオペレータとやりとりするのか,責任者出て来い!」と逆効果になるのではないか.
このような場面に関連する知見としては,ユーザと性格の似たソーシャルアクタに対しては責任をなすりつけづらい傾向があるという研究や,ソーシャルアクタ側におまかせの自動処理を多くすると,失敗すればその分責任のなすりつけがなされやすいという研究などがある.これらの研究も踏まえると,ロボットは「困っている人に対して助けてあげる」存在よりも,「困っている人に自力で解決するためのモチベーションを与える」存在を目指す方が,人とロボットの関係構築・維持がしやすいのではないだろうか.
科学者や技術者であるなら、発見につながるあらゆる可能性にアンテナを伸ばすべきで、そのためには、好き嫌いがあってはいけないように思う。研究の幅や、発見につながる可能性を大きく狭めてしまう。
強く同意である.私の周りでも「エージェントシミュレーションは人間とエージェントの相互作用ではないからうちでは扱わない」「メディアアートはいい加減なアートであって研究ではないからうちでは認めない」「アンドロイドの開発は存在すらも怪しい不気味の谷を超えようという試みで,あんなことをして何がわかるのか」などと,分野の好き嫌いが激しい研究者がおり,しかも私からみればその批判はどれも的外れに思える.私は多くの研究について批判的なことも書くが,「好き嫌い」が研究の価値の肯定・否定の意味ならば好き嫌いはない.むしろ日常生活も含めあらゆる出来事に注意を向け,「これはひどい」と強く批判的な考えを誘発する考えや,逆に「これはすごい」と驚きを含んだ肯定的な考えを誘発する考えを発見することに価値を見いだしている.それに対して他者を納得させられる一般性を含む説明を試みるのが研究の営みなのだ.
この本のよい点は,学術論文では往々にして語られず,また招待講演などでも伝わりづらい,研究のプロセスやその場その場のむき出しの感情についての記述が豊富なところである.誤解や批判を恐れずこのような感情を生むエピソードを書き出すことは,「すごい,確かに自分もそう思う!」ないし「え,まじで? そんなリアクションするのあなたとその周りだけでは?」と肯定・否定双方のリアクションを生むことになるだろうが,いずれにせよ活字に残るほどの感情なのだから,それだけインパクトの強いエピソードである以上,将来の研究につながるものといえる.
むき出しの感情を表出する研究者も,単に表出しっぱなしでは話にならないわけで,その感情がどの程度理論的に説明できるのか,その理論はどこまで一般化できるのかを,蓄積したエビデンスにもとづいて検討する必要がある.しかしむき出しの感情を表出するほどの出来事は,研究者側が様々な試行錯誤を重ねたり,アンテナを張り巡らせたりしない限りは生まれ得ない.むき出しの感情を発する出来事に出会うことが,社会にインパクトを与える研究の第一歩といえる.
むき出しの感情がなくては研究にならないし,むき出しの感情だけでも研究にならない.研究者たるもの沈着冷静であるものという先入観が一般的にはあるだろうし,またそうあるべきだという声もあるのだが,沈着冷静にエビデンスにもとづいて議論を重ねる前に,まずはむき出しの感情を生み出す出来事を必死で探す必要があるのだ.
「悪用できない技術は偽物である」
これが私が持っている一つの基準だ。技術とは世の中を変える可能性があるものである。逆に世の中にまったく影響を与えない技術は、意味のない技術であって、技術とは呼べない。
研究は、
「自分の命より重い研究である」
でなければならないと思う。人間を理解するという研究は、研究することが生きる目的にもなっている。ゆえに、研究よりも自分の命が重いと思うときには、真の研究をしようとしていない可能性が出てくる。「本当に、自分は自分の命より重い研究ができているのか?」この問いは、常に自分に重くのしかかる。
人工知能学会誌Vol. 24,No. 6にも記録が残っている昨年のHAIシンポジウムのパネルディスカッションの質疑で,私はHAIにおける倫理的な問題を議論することが重要ではないかと指摘した.倫理的な問題を問うような問題はHAIの中にはないという反論に遭ったものの,そうした反論にも納得できず,考えは変わらなかった.この記述を踏まえると,倫理委員会が多少はもめそうな内容の研究に着手しなければ,それはたいした研究にならない可能性を含むといえる.何から何まで「悪用されかねない技術」「命より重い研究」ばかりしていては体がもたない研究者がほとんどだろうが,1つや2つはこのような研究に着手して,社会へのインパクトを与えた方が一流の研究者として生き残れる可能性が高い.研究者として生き残るには何が必要かを思い知らされる,素晴らしい指摘だと考えている.
まず,(1)から読まれていない方は,そちらを読まれたい.
今回は『ロボットとは何か』の第6章から第8章に関して気になった点を述べる.
私が驚いたのは、平田氏の演出手法である。平田氏は、役者に対して一切精神論を口にしない。「もっと感情を込めて」などの、解釈が難しいことは何一つ言わないのである。そのかわり、役者の立ち位置や間の取り方に突いては非常に厳密である。五〇センチ前に来てとか、〇・三秒間をあけてというように、まるでロボットを制御するように、役者に指示を与えていく。それを見ていて、これなら簡単にロボットもプログラムできると思った。
(2)の注にも関連するが,(sympathyにもとづく)精神や気持ちという目に見えない問題を扱うから人によって解釈の違いが起きる.(empathyにもとづく)目に見える行動のコントロールであれば,演劇ならば聴衆と役者と演出家,HRIならばユーザと設計者とロボットの間で「どう行動すれば,ないしさせればよいか」の認識のブレが起きにくい.だからこそ,人間とロボットのインタラクション設計は目に見えるレベルの議論を中心に考えた方がよい,というわけだ.
問題は、どうやれば心を持っているように見えるか、我々には分からないということである。心理学や認知科学でも、むろんのこと、そのような研究をしている。しかし、それらの研究は、実験室の統制された環境で発見された人間の性質についてであり、日常生活において、人間がさまざまな刺激を受ける中でどのように心を表出しているかについては、まったくといっていいほど説明しない。
この、工学者も心理学者も認知科学者も答えを持たない問題に対して、平田氏は、その才能や直観で、いきなり答えを出してくる。平田氏自身も「なぜそうすればいいかは分からないけど、そうすればいいことは分かる」と言う。
心理学や認知科学の知見が,日常生活における人間の行動をまったく説明できないなら,何のための研究なのかという話になってしまうのではないか.日常生活にみられる現象をどのように切り取るか,という観点で考えれば,工学も心理学も認知科学も演劇も同じではないか.そのアウトプットがシステムや理論として出てくるか,演劇作品として出てくるかの違いだと考えている.それに研究も 才能や直観
に頼る面は大きいし,他者に説明して納得を引き出すレベルになるまでは 「なぜそうすればいいかは分からないけど、そうすればいいことは分かる」
という考えをせざるを得ない.ただ,この場合の才能は生まれ持った能力などではなく,これまでの研究の経験と,その経験に対する省察の蓄積とみる必要はあるが.「そうすればいいことは分かる
自分の理論やシステムについて,そうすればいい理由を検討した結果,ある境界まではうまく説明できたり機能したりするが,そこから先は何とも言えないので今後の課題だ」と,説明可能な境界の拡大と極力明確な線引きがジャーナル論文の目的であり,説明可能な境界の拡大先として妥当かどうかを問うのが研究予算の申請という活動といえる.
本文にあるような役割の違いを仮定すると,分野を超えた協同では障害にさえなる.むしろ,最終的なアウトプットは異なるが,同じテーマからどう問題を切り取るかの違いに着目して分野を超えた協同を行う方が,目標や研究プロセスの共有もしやすく,よりよい成果を出せるのではないか.そのためには,分野を超えた協同を行うだけの価値があるテーマを発見することが求められるし,アンドロイドはそのようなテーマのひとつであると個人的には考えている.
ロボット演劇では、特定の状況と特定の脚本に特化して、演出家とともにプログラムを開発している。まったく作り方が異なるのである。
そう考えれば、
「人間と関わることを目的とするロボット研究は、間違ったロボットの開発方法をとってきた」
と言えるかもしれない。つまり、汎用的な人と関わる機能を作ろうとして、結果的に役に立たないロボットを作ってきたのではないだろうか。やるべきことは、状況や脚本を限定していいので、徹底してロボットの動作やタイミングを調整し、その状況や脚本において、人間らしい心を感じさせるまでにして、人間と豊かに関われるロボットを実現することではないだろうか。
ロボットをある特定の場面の中で振る舞わせる,という状況の中で,こういう結論にたどり着いたのは大きい.その通りだと思う.ついでにいえば,よい脚本は,すんなり納得できる社会心理学・認知科学の理論的裏づけができると個人的に考えている.この場合の理論は,既存のものであるケースもあれば,新たに見つかるケースもある.よい脚本はよい研究をも生む可能性があると考えている.
以前、ある講演で会場からの質問に対して思わず、
「哲学を持たない者は機械になる」
と言ったことがある。その意味は、自分について考えることはすべて哲学であり、その問題を直接的にも間接的にも、考えることこそ、人間らしいと言いたかったのである。自分とは何かを考えるというのは、まさに心とは何かを探し求めているということであり、言い換えれば、次のようにも言える。
「心の存在を信じない人間や心を探さない人間は機械になる」
むしろ私は,「心」という曖昧な意味の言葉だけで何事も片付けようとする人間こそ出来の悪い機械ではないのか,と考える.普通自律的に動いていると思われる人工物に対しては,動作原理を追求するより「あれは心を持っている」と捉える方がずっと楽なはず.ロボットの設計者がつい職業病的に無自覚に動作原理を追求することなどはあるかも知れないが,そういう例外を除けばこういった反応を示すだろう.(1)のスタンス2を思い出せば,この「心を持っている」という反応(= 志向姿勢)が無自覚的反応であり,これに対して分析的思考を働かせることこそが人間について考えることだと考えている.
具体的に取り組もうと思ったのは、「ジェミノイドをミニマルデザインしたもの」である。
先に述べた女性アンドロイドやジェミノイドの開発では、見かけや仕草などすべてを人間らしくしようと努めてきた。一方、ジェミノイドの研究では、操作者が自分の見かけと異なるものにも乗り移れることを体験した。
このような研究の過程で「人間から不要なものをそぎ落として、いわばむき身の人間を作ったらどうなるか」という興味が出てきたのである。
いわゆる不気味の谷の「崖」の左側から,人工物に人間らしさを付け足してミニマルデザインを模索する例は多い*1が,このように「崖」の右側から人間らしさに関係なさそうな要素を引いていって最適なデザインを探る例は少ないのではないか.そして,むしろこの「引き算」のアプローチの方が,より自然なデザインが可能かも知れない.
先に、情動から性の問題に踏み込むのは危険であると述べたが、一つだけ許される手段があると思う。
それは芸術である。
私は安易に「芸術 = タブーに挑戦する」とする考え方は危険だと考えている.タブーに挑戦するからには,あえて挑戦しなければどうしても解決しない問題があることを,人が納得できる形で説明する必要があるだろう.その覚悟があっての発言であればわかるのだが,「自分のやっていることが理解されないので,『芸術』と呼んでアーティストと協同すれば認めてもらえるだろう」などと放言するだけの無責任な研究者もいるので気になる.
このような(鈴木注:子供ロボットCR2の歩行の)介助の経験をすると、子供ロボットが従来のロボットとまったく違うことが実感できる。そもそも、人の手を借りないと、立ったり歩いたりできないというロボットはこれまでになかったのであるが、実際にその介助を経験すると、気持ち悪いくらいにこの子供ロボットは、人間らしい。
歩行の介助まで絞り込めば確かに試みがなかったといえそうだが,人の手を借りなければ働けないロボットのデザインについてはいくつか事例がある(岡田研@豊橋技科大の一連の研究など).もちろん人間の介助によるロボットの歩行の学習という研究テーマにも価値はあると考えているが,その一方で介助する人間側に注目し,どのような形の介助を引き出すことが人とロボット(ひいてはソーシャルアクタ)との関係を生み出し,維持できるのかを検討することが重要とみている.
*1 言語を介するなり,ヒトないし生物の身体の一部や動きを模すなりして,人間らしさにつながる手がかりをもとに議論する研究ならわかるのだが,ビープ音やLEDの明滅といった「どこに手がかりがあるのか?」という文脈の読み取りがしづらい研究では,何を根拠に論じているのかわからないことがある.
まず,(1)から読まれていない方は,そちらを読まれたい.
今回は『ロボットとは何か』の第4章,第5章の遠隔操作アンドロイドの話題に関して気になった点を述べる.
私の座っている状態での動作プログラムが完成したのであるが、その動作を最初に見たとき、これは私の動作ではないと思った。
だが、そのことを伝えると、皆は声をそろえて、「そっくりです」と言うのである。そして、実際に参考にした、私のビデオ映像とジェミノイドを並べて見せてくれた。両者は確かに一致していた。プログラム担当の学生はかなり忠実に、私の動きを再現していたのである。
このことは、私にとってはかなり衝撃だった。私は私の動作をほとんど意識していなかった。知らなかったのである。
確かに自分の知らない,他者から見た自分の姿の再現を見ると「これが自分だったのか!」という衝撃を受けることは想像に難くない面もある.だが,「自分が想像する『他者から見た自分の姿』」と「他者から見た自分の姿」を比較して,どこが具体的に違いがあったのだろうか? そして,仮に普段から「他者から見た自分の姿」を頻繁に見る人が同様にジェミノイドを作成(CGで十分かも知れないが)し,同様に動作プログラムを組んだ場合,どの程度の違和感があるのだろうか? 動作の一致の度合いというスケールで考えていいものかと思ったまで.
ジェミノイドを通した対話を五分ほど続けて、操作者がジェミノイドの体に適応した頃を見計らい、ジェミノイドの頬を突っついてみる。すると、操作者も本当に自分の頬を突っつかれたような感覚を持った。
この頬を突かれる体験は非常に屈辱的である。なかには本当に「やめてくれ」と声を出してしまう操作者もいる。体が自由に動けないのをいいことにいたぶられている感じがするのである。
ここで重要なのは「自分の一部という認識はあるが,自分の思い通りに操作できない身体(= 操作しているジェミノイド)がここに存在する」ということ.一般向けの本ゆえに「心」「脳」「感覚」あたりの用語を一緒くたにしているように読めるのだが,self modelの議論にすり合わせた説明にし,それに合わせたわかりやすい例を出す方が一般読者も研究者ももう少しすっきり考えられそうな気がする.
ちなみに頬を突っつく以外にも,ジェミノイドの指を手の甲方向に思い切り曲げた時の反応をみる,といった実験も行われている.
妻の方がジェミノイドを遠隔操作しているときに、ジェミノイドの頬を突っつくだけでなく、体にも触ってみた。はたから見ると、私が私の体に触っているだけなので、特に変な感じはしない。しかし、遠隔操作している妻は「キャー!」と叫んだのである。
興味深かったのはそれだけではない。私に体を触られて驚き叫んだ(妻が乗り移った)ジェミノイドを見て、夫の方は腹が立ったと言うのである。この反応には、正直私も驚いた。ジェミノイドの見かけはまったく私なのに、夫にとって、その人格は妻になっていたのである。
ある夫婦の研究者の,妻がジェミノイドを遠隔操作し夫がその様子を見ていたというエピソードである.何より引っかかるのは ジェミノイドの見かけはまったく私なのに、夫にとって、その人格は妻になっていた
のくだり.石黒先生の研究もそれなりに熟知しているはずの研究者なのだから,ジェミノイドの仕掛けを知らないわけがないだろう.それでもこういう反応を起こしてしまうのはなぜか,を考える必要がある.
ここで効いてくるのが(1)のスタンス2に示した二重過程モデルである.無自覚に応答するレベルではジェミノイドはジェミノイド自身*1として見ている.ところが,妻の叫び声をトリガーとして分析的思考が機能し,「あ,そういえば妻がジェミノイドの『中の人』だったのだ」と思い出し,妻が嫌がる行為をされたので腹を立てたのでは,と考えることもできる.ただ,分析的思考の働かせ方次第では石黒先生の主張そのままという考え方もありうるので,検討が必要だろう.
ジェミノイドの研究を見てみると,「自分自身がジェミノイドを操作する場合(= 自分が「中の人」)」と「他者が遠隔操作されたジェミノイドとインタラクトする場合(= 他者が「中の人」)」があり,両者の考え方がかなり違うのだが,ここでこの2つの場合における人間のジェミノイドに対する応答について整理・考察したい.
この手の議論をすると「心と体の問題」や「心の理論」を持ち出して大胆な仮説を唱える研究者も多いし,そういう研究者が「お,面白いこと言うな」と注目を浴びる傾向がある.もちろん,面白いことを言わなければ注目を集めることは難しいので,面白さを意識する必要はある.だが,素朴に考えて,いちいち自分の身体について意識しながらロボットを操作したり,「あいつはきっとこう思っている」というマインドリーディングを本当に人工物相手にやっているのかという疑問がある.素朴に考えると,いちいち自分の身体を意識するのもしんどいし,人工物相手にそんな反応をしようとする前に「たかが人工物にそこまでやるか?」と思わないのかという疑問を,Media Equation(日本語訳)*2を読み込んで以来,この研究を始めた大学院修士課程の頃からずっと持ち続けている.無自覚で自動的な応答プロセスとして説明できないのか,というのが私の考えである.せっかくなので,アンドロイドサイエンスに対抗して,という意図はないが,このテーマを「『中の人』サイエンス」と呼んでみたい.
自分が「中の人」の場合,大事なのは次の2つである:
自分の一部と認識していて,かつ自分の思い通りに操作できる範囲
自分の一部と認識しているが,自分の思い通りに操作できない範囲
まずこれらの範囲を見極め,その範囲が決まる要因を特定することが重要となる.さらに,ジェミノイドの頬を突っつく例や,夫婦の研究者の例にみられるような,2. の範囲の身体への作用が「中の人」(ジェミノイドの場合は操作者)に与える影響について,結果もさることながら倫理面でもきわどい問題が現れそうなので,注意が必要だろう.
他者が「中の人」の場合なのだが,「中の人」の存在を教示しない方が,教示して「中の人」への意識を誘発した場合より円滑なソーシャルアクタ(PC,身体化エージェント,ロボット全部ひっくるめて)とのインタラクションが可能であることを示唆する実験がある.これを考えると,遠隔操作されたソーシャルアクタと相互作用するユーザを想定する場合,ユーザは遠隔操作している相手より,ソーシャルアクタ自身と相互作用しているという前提でインタラクションのデザインを考えた方がよいと考えられる.これは昨年のHAIシンポジウムでもコメントしたことだが,アンドロイドの場合,無自覚なレベルではアンドロイドの外観に引きずられた人間の反応が考えられる.たとえば石黒先生の外観で石黒先生の人となりを知っている人間であれば,「中の人」が誰であれ,「あれ,『中の人』は誰?」と思わせるような不自然ささえ感じなければその言動に石黒先生の権威を感じてしまうことも十分ありうる.そうなると,石黒先生を騙ってとんでもない発言をする輩も出てくる可能性は否定できない.いまのところ石黒先生のジェミノイドはおそらくこれ1台のみだし,操作のためのコストや管理を考えれば現実的な問題ではないのだが,こうした問題を考える上でも,「中の人」サイエンスは重要なのだ.
さらに,ロボットと相互作用する人間と,ロボットの「中の人」の場の認識は共有されている保証がない点に注意が必要である.第7章で次のような記述がある:
ジェミノイドの研究において,得られた知見の中でもっとも重要なことは,操作者も訪問者も対話によってジェミノイドに適応したこと,特に,操作者においてはジェミノイドの体を通して感覚まで共有できたことである.加えて,先に述べた夫婦の研究者が操作したケースのように,ジェミノイドの姿形が私であっても,夫は妻が操作しているジェミノイドに妻を感じていたということである.
研究者でない読者向けに誤解を恐れずわかりやすく書いたつもりなのだろうが,これは正直言い過ぎであろう.確かに操作者も訪問者もジェミノイドを介した相互作用環境に何らかの形で適応し,曲がりなりの相互作用ができたとはいえる.だが,操作者・訪問者それぞれの環境の解釈は上記のように異なる可能性があり,感覚まで共有
とまでは言えないのではないだろうか.ジェミノイドの姿形が私であっても,夫は妻が操作しているジェミノイドに妻を感じていた
という考察についても,別の解釈が成り立つ可能性があることは前述の通りである.
*1 もしかしたら石黒先生のような外観すらも関係なく,単に人間に近い外観をしたロボットという見方さえしているかも知れない.
*2 関連して,人工知能学会誌Vol. 24,No. 6の竹内先生の論文について(CiNiiで捕捉したら論文情報へリンクする予定).せっかくタイトルにもMedia Equationを入れているのだから,無自覚的な対人的応答の面を重視した論調でもよかったのでは,と考えている.いきなり無自覚的な議論をしても読者に伝わりづらいのでは,という判断なのかも知れないが.「古い脳」にもとづく議論を紹介するなら,より実証的な証拠をもとに議論しているNass & Moon (2000)(著者ページにPDFあり)の内容をベースにした方がよかっただろう.さらに欲を言えば,Nassらの研究にない「こういう発想の研究もできるのでは?」という議論もあればよかったかと思う.
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